文・編集:野村由芽(me and you)、メインビジュアル:slogan、編集:竹中万季(me and you)
ファッションにまつわるコンプレックスはあるでしょうか?ファッションはその長い歴史のなかで、暑さや寒さなどの環境から身を守るという機能的な役割や、嗜好を表現する手段として、そして思想や職業、階層などを表す社会的ものとしても機能してきました。
自分ひとりで過ごすときだけでなく、他者とかかわる場面で身に纏うものでもあるからこそ、「これを身につけたい」と思っていても、周囲から、あるいは自分自身から、さまざまな制約や抑圧がもたらされる可能性があり、そこにコンプレックスが生まれることがあるのではないでしょうか。
多様な愛のかたちについて考え、性愛を「生きることの喜びを支えるもの」として捉えているTXAは、ウェブメディア「me and you little magazine」とともに、これまでコラボレーションしたアーティストの方々から「ファッションとコンプレックスの関係」についての声を集めました。ファッションにまつわる悩みや疑問に目を向け、この社会における人と人の関係性や、ファッションを纏う身体に向けられる眼差しを見つめ直す。その行為が、一人ひとりの生きやすさの道筋の発見に少しでもつながることを願っています。
私は鎧を脱ぎ、もっと軽やかな気持ちのファッションを選択したい
大河紀さん
ファッションにまつわるコンプレックスがある場合、それとどう向き合ってきましたか?
あるいは、ファッションとコンプレックスの関係性についてどのように考えていますか?
10年ほど前、日本では他人の体型への言及をすることが今ほどタブーにはなっておらず、私の周りには、それによってコンプレックスを感じたり、身体の気になる箇所を隠すためのファッションを選択している人がいました。
しかし海外で生活をはじめた友人が「自分の身体をポジティブにとらえている」自由な服装に変化したのを覚えています。
ファッションやコンプレックスは自身だけの悩みだと思いがちですが、他者の目がそれを決定づけていて、自身と他者の身体的特徴を許容することがファッションからコンプレックスを離し、より自由なものを身に纏う方法なのだと考えています。
恋愛や性愛に関する場面で、ファッションに対して悩みや疑問を感じることはありますか?
個人的なことでも、社会を見て感じることのどちらでも問題ありません。
相手に合わせたファッションをしていたこともあり、よく考えてみるとそれは自分の好みではなかったことに気づきました。自分ではなく人に服を合わせているときには、自分自身の内面もさらけ出せていなかったように思います。そういう行為があったからこそ、本来の自分を発見することにもなったので結果オーライなのですが。
ファッションは手段としても、目的としても使うことができるのですが、私は鎧を脱ぎ、もっと軽やかな気持ちのファッションを選択したいです。
どんなファッションを身にまとうと、自分自身でいられると感じますか。あるいは、ファッションは自己表現においてどんな役割を果たすと思いますか。
金額に関わらず、自分が直感で気に入ったものを気に入っている間に大切に着ることが、自分自身でいる方法だと思います。
服への愛情があると、自信をもって外に出ていけて、自分を肯定してくれるような気がします。そういった服は良いものだと思います。
今、ファッションに対してコンプレックスがある人への言葉。
自分の身体を自分だけで愛するのは大変なことだと思います。
いい友達、いいパートナー、理解者がいる、自分に合う良い環境がきっとあると思います。
岡山県出身、東京都在住。多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒。浮世絵の快楽主義的なテーマにインスパイアされ、無機質な形と極端なディテールのコントラストが特徴であり、情緒的な作品を描く。広告ビジュアルやパッケージ、アパレルや装画など、様々な媒体のアートワークを幅広く手がけながら、個展など国内外問わず精力的に作品を発表し続けている。
相手の感性を取り入れて合わせるファッションも、自分の感性を貫くファッションもどちらも素敵です
OTANIJUNさん
ファッションにまつわるコンプレックスがある場合、それとどう向き合ってきましたか?
あるいは、ファッションとコンプレックスの関係性についてどのように考えていますか?
自分の体格やキャラクターが、着たい服のムード、イメージとマッチしないなあと感じていたことは、10代の頃は特にあったと思います。人と同じことが嫌と思ってしまう、あまのじゃくなタイプだったので、変わったものを買っては似合わず着ないという拗らせはしょっちゅうでした。今考えると、なぜそんなものを身に付けていたのと思うこともあります(笑)。
ただ、そういった失敗を糧に、自分の好きな色合いやムードなど、自分にとって「良いじゃん!」と思う感覚を探す作業を無意識に続けたことが今に活きているのかなと思っているので、むしろ噛み合わない拗らせ感覚があって良かったなと思います。
いろんな価値観と出会ったりして、いつのまにかそういった拗らせ悩みもスーッとなくなっていきました。
愛や性愛に関する場面で、ファッションに対して悩みや疑問を感じることはありますか?
個人的なことでも、社会を見て感じることのどちらでも問題ありません。
恋愛相手に合わせて自分の印象やファッションを変えたりということは今までないので、悩んだという記憶がないのですが、最低限相手に不快に感じさせない印象であればどんなファッションでも問題ないかなと思っています。相手を意識したうえで気にしているのは、それくらいです。
僕としては、相手の感性を取り入れて合わせるファッションも、自分の感性を貫くファッションもどちらも素敵です。お互いにその辺を理解しあえていれば、悩むことはそんなにないのかなと思います。
どんなファッションを身にまとうと、自分自身でいられると感じますか。あるいは、ファッションは自己表現においてどんな役割を果たすと思いますか。
僕は自分の服装に関しては、楽な気分でいられること、居心地良くいられることを一番に考えています。 人の目は気にせず、ただ自分が納得できればなんでもOKとしている感じです。こだわりがコロコロ変わるので、時々印象を変えたりして楽しんでいます。
最近は自分を客観的に据えてみたくて、髪の毛を緑に染めたりして遊んでます。40歳を超えてる自分がどういう印象になるんだろうという興味と、自分と世間への覚悟もありますが、そういう意味では今の見た目は自己表現そのものかなとも思います。
今、ファッションに対してコンプレックスがある人への言葉。
僕なんかが言えることはないのですが、ファッションに限らずコンプレックスを持つというのは、自分のモチベーションになることが多々あるので、コンプレックスがあるってこと自体は悪いことだと思っていません。
どういったファッションを好きかとか、自分には何が似合うのかとかを模索している、譲れないこだわりに悩みつつそれに向き合う人の方が、人間観察が好きな僕としては魅力的に映ります。
経験上で思うのは、いろんな人に会ったりして、自分とちょっと違う価値観に出会ったりしたときに、こだわりは一旦置いておいてそういう考えもあるんだなと、自分の頭の別ポケットに共有しておくと、自身のこだわりの落としどころが上手くいくこともある気がしています。
1980年生まれ鳥取県出身。リズミカルでシンプルなドローイング表現を用いて活動するグラフィックアーティストであり、デザイナー&アートディレクター。 これまでに、広告ビジュアルのデザインディレクションや企業、ミュージシャンとのコラボレーションの他、『Diff’rent Strokes for Diff’rent Folks (十人十色の意)』をテーマにした作品を制作し、海外でも個展を開催するなど、精力的に活動しています。
流行や人目にとらわれないで、好きな格好してる人を見ると嬉しくなります(自分はできなかっただけに)
管弘志さん
ファッションにまつわるコンプレックスがある場合、それとどう向き合ってきましたか?
あるいは、ファッションとコンプレックスの関係性についてどのように考えていますか?
他人のファッションを見るのは好きだけど、いざ自分のこととなるとわからない。外見や性別を超えたなりたい自分はあっても、人目を気にしたり現実的じゃないと思い込み、それを行動に移したことはありません。そんな踏み切れない自分も、ちょっと愛おしく思ったりもします。
愛や性愛に関する場面で、ファッションに対して悩みや疑問を感じることはありますか?
個人的なことでも、社会を見て感じることのどちらでも問題ありません。
流行に乗って、キレイでキラキラしたものが好まれて良しとされてる風潮に疑問を感じます。
どんなファッションを身にまとうと、自分自身でいられると感じますか。あるいは、ファッションは自己表現においてどんな役割を果たすと思いますか。
僕は絵を描いているので、ファッションへ比重が向かないようになるだけニュートラルなファッションを意識しています(ファッションがわからないだけかもしれませんが。)。自己表現は絵に重きを置いて、ファッションは「何者でもない人」を目指しています。
今、ファッションに対してコンプレックスがある人への言葉。
流行や人目にとらわれないで、好きな格好してる人を見ると嬉しくなります(自分はできなかっただけに)。
1973年大阪生まれ。イラストレーター。東京、大阪、ロンドンで個展。雑誌「サイゾー」、キリンジ「カメレオンガール」CDジャケットなど。
絶対的な平面性、違和感、裏切り、何の意味も持たない物語。
基本「自分らしさ」は自分では決められることではないと思っています
杉野ギーノスさん
ファッションにまつわるコンプレックスがある場合、それとどう向き合ってきましたか?
あるいは、ファッションとコンプレックスの関係性についてどのように考えていますか?
「若い頃から白とか黒ばっか着てるといざ自分が色を使う側になったとき、つまらない色しか使えなくなるよ」学生時代の教授からの言葉が残っています。服に関して自分が色を使うことに自信がなく、白か黒を選びがちだったからです。そこであえて原色の組み合わせなど色を多く使った服を着る期間を設けてみました。最初はこれまでとのギャップもあり、周囲の人たちから服装に触れられることもありましたが、しばらく続けていると誰からもツッコまれなくなりました。「こいつはこういう色の服も着るやつなんだ」と認識が変わったことを感じて不思議な気分でした。
愛や性愛に関する場面で、ファッションに対して悩みや疑問を感じることはありますか?
個人的なことでも、社会を見て感じることのどちらでも問題ありません。
どんなファッションを身にまとうと、自分自身でいられると感じますか。あるいは、ファッションは自己表現においてどんな役割を果たすと思いますか。
基本「自分らしさ」は自分では決められることではないと思っています。場所と状況に合わせてパターンを選択します。呼ばれた式場では暗い色のスーツを着ますし、たぶん砂漠では白い布を身につけると思います。ミッキーの耳を付けていたらその人はディズニー帰りだし、ラケットを持っていたならテニスをしている人だなと。自分にとってファッションは「それの人」になれる変身のようなもので、そのかけ合わせだと思っています。
今、ファッションに対してコンプレックスがある人への言葉。
自分ベースに服を着るという考え方ではなく、服があって自分がそれに寄せられる。服を着てそれになるという考え方をしたら自分は気が楽になりました。
クレヨンで絵を描くアーティスト。
個展「GIINOS」「GUEST ROOM」「SUPER MAT」ほか展示活動を中心として活動。
自分の心の移り変わりを毎日を見ているのは自分だけなので、他人がその答えを知る術はないのです
millitsukaさん
ファッションにまつわるコンプレックスがある場合、それとどう向き合ってきましたか?
あるいは、ファッションとコンプレックスの関係性についてどのように考えていますか?
コンプレックスの種類はたくさんあると思いますが、私の場合は着たい服があっても自分の体格や他者の目が少しでも気になって気持ちよく外を歩けないと思うときがあります。いろいろと考えましたが今は「着たさ」と「気持ちよさ」の度合いを比べて、気持ちいい方を選ぶようになりました。パーソナルカラーや骨格診断など、占いみたいなもんだから好きな服着たらええねん!の快活なおばさんを心に住まわせています。当然、そこには他者からの目を気にするキョロキョロした私も同居しています。なんなら、それが本来の心の家主です。
愛や性愛に関する場面で、ファッションに対して悩みや疑問を感じることはありますか?
個人的なことでも、社会を見て感じることのどちらでも問題ありません。
一番悩んだ質問です、ファッション単体で見ると「その日に着ている服だけで人格を判断するのはさすがに難しくない?」とか、「別にヒールじゃなくても動きやすい靴でいいだろ」だとか、社会に対しては思うのですが、そこに恋愛と性愛が関わると途端に幼い子どものように「私が着たい服が好きな人から見て変だと思われたらどうしよう!」という悩みしか出てきませんでした。書いていて私の心の家主の幼さを感じました。でもきっとこれが長年の悩みなんだと思います。
どんなファッションを身にまとうと、自分自身でいられると感じますか。あるいは、ファッションは自己表現においてどんな役割を果たすと思いますか。
「着たさ」が「気持ちよさ」を上回って、この服を着られることがこんなに嬉しい、それにより自分の心がこんなにもご機嫌である!という状態になったときです。結果「気持ちがよい」状態でもあるので、そんな衣服に出会えるととても嬉しくなります。私たちは毎日自己表現と捉えられるコーディネートクイズを己に科していると考えるとちょっと疲れてしまうけど、自分の心の移り変わりを毎日を見ているのは自分だけなので、他人がその答えを知る術はないのです。
今、ファッションに対してコンプレックスがある人への言葉。
あなたの着たい服を着てください、私はそれが見たい!見せて!と言いたいけどそれができる環境や心持ちがないとなかなか難しいことだと思います。私も買ったのに着ることができない超かわい〜い洋服がクローゼットで目をつむっています。しかし自分が好きだと言えるものが具現化して目の前にあることだけでも、自己表現になりうると思います。たとえ人に見られることがなくっても。気が向いたら人に見せてやるか♪の気持ちでいたいな〜と私は思っています。
イラストレーター。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。東京在住。
デジタル、アナログ両方の手法でグラデーションを特徴としたイラストを制作。
広告や装画、アパレルなどのイラストレーションのほか、個展などの個人制作も行う。
散歩と動物のぬいぐるみを集めるのが趣味。
男女を区別する意識ってこういうふうに刷り込まれていくのか……とうつろな気持ちになります
三好愛さん
ファッションにまつわるコンプレックスがある場合、それとどう向き合ってきましたか?
あるいは、ファッションとコンプレックスの関係性についてどのように考えていますか?
ゆるっとした服が好きなのですが、小さいころからなで肩だったため、だらしのないふうに見えてしまい、中学生のとき友達によく「今日も服、よれよれしてるね」と言われていました。よれよれ、と言われるとそれなりに落ち込み、かと言って服の好みは変えられず、ゆるっとした服を着続け、20代になってひさしぶりにその友達に会ったら開口一番、「やっぱり、服、よれよれしてるね!」と言われてなんだかすごく腹がたったのですが、ある意味自分を一貫してきたことへの賞賛のようにも受け止めることができるな、と思い、それ以来、自分の服に対するまわりの人の言葉はあんまり気にしないことにしました。
愛や性愛に関する場面で、ファッションに対して悩みや疑問を感じることはありますか?
個人的なことでも、社会を見て感じることのどちらでも問題ありません。
子どもがそろそろ2歳なのですが、服装によって「男の子みたい」「女の子らしい」系のことをめちゃくちゃ言われます。大人が「男らしい」「女らしい」と言われる回数より断然多く、まだ本人の自我が確立していないのでまわりも言いやすいんだと思います。男女を区別する意識ってこういうふうに刷り込まれていくのか……とうつろな気持ちになります。
どんなファッションを身にまとうと、自分自身でいられると感じますか。あるいは、ファッションは自己表現においてどんな役割を果たすと思いますか。
自分の好みの服を着るときが一番しっくりとした気分でいられる、と思うのですが、自分の中身の見せ方を変えることができる(誠実そうに見せる、元気そうに見せる、とか)のもまた魅力かな、と思います。
今、ファッションに対してコンプレックスがある人への言葉。
ファッションって、自分の好み、体型、時代の流れ、予算、とか要素がたくさんあって、考えはじめるととても難しい気がしてきます。
だから、自分の直感が少しでも動いてその服を着ているのであれば、それだけですばらしいことなのでは、と思います。
1986年東京都生まれ、在住。東京藝術大学大学院修了。イラストレーターとして、挿絵、装画を中心に多分野で活躍中。著書にイラスト&エッセイ集『ざらざらをさわる』(晶文社)。
ファッションに込める内面性は人それぞれであるという認識が広まっていくことを願っています
森優さん
ファッションにまつわるコンプレックスがある場合、それとどう向き合ってきましたか?
あるいは、ファッションとコンプレックスの関係性についてどのように考えていますか?
ファッションが周りの人たちに与える印象と内面のギャップについてはよく考えます。
内面の表現でありつつ、どんな日々を過ごしたいかシーンを作り出す大事な要素でもあるのでそのバランスには日々迷っていますが、その迷いやギャップを積み重ねていくうち、過ごした日々の中に思想は宿るような気もするので、自信がないなりにその都度ファッションを楽しみたいと考えています。
愛や性愛に関する場面で、ファッションに対して悩みや疑問を感じることはありますか?
個人的なことでも、社会を見て感じることのどちらでも問題ありません。
昔から自然と「スカートを履いているから女性らしい」のように、特定のものを身につけているからどの性かという認識があまりありませんでした。
自分の性自認について「身体的に与えられた性に対する自覚は全くないが、かといって何かに属したいとも思わない」と周囲には伝えています。
そんな自分がたとえば女性的な服装をしていると驚かれることがありました。
私はどんな服も「かっこいい」「かわいい」「誠実そう」「艶やか」などの印象を与えるものであって、必ずしも性の表現ではないと思っています。
ファッションに込める内面性は人それぞれであるという認識が広まっていくことを願っています。
どんなファッションを身にまとうと、自分自身でいられると感じますか。あるいは、ファッションは自己表現においてどんな役割を果たすと思いますか。
前述のようにレッテルを貼られることもあると思いますが、どのように人に見てもらいたいか言葉より先に伝えられるメッセージでもあると思います。
今、ファッションに対してコンプレックスがある人への言葉。
私自身は長いこと何度もコンプレックスから逃げようと試した結果逃れられなかったコンプレックス人間なので、それをを取り除く方法はこちらが聞きたいくらいなのですが、必ずしも恥ずべきものでも悲観するものでもないのではないかと思います。
自分の不足感さえも自分自身として、今日もコンプレックスを感じたとしても、それはそれで愛らしいんじゃないかと思っていいのではないでしょうか。
岩手県盛岡市出身、漫画家、イラストレーター。
広告、エディトリアルや挿絵のイラストレーションの作成、展示にて作品の発表を行うなどの活動をしています。
湿度のある不思議な世界観が得意です。